異業種へ飛び出す司書たち

AIの「公正さ」を担保する情報評価力:元司書が学習データセットバイアス評価で拓く道

Tags: AI, データセット, 情報倫理, バイアス, キャリア

はじめに

図書館司書としてキャリアを積んだ後、異業種で活躍する方々の多様な事例は、自身の専門性や経験がどのように社会の様々な領域で応用できるのかを考える上で大きなヒントとなります。特に、情報技術が急速に進化する現代において、司書が持つ「情報」に関わる専門性は、想像以上に幅広い分野で求められています。

今回は、図書館を離れ、AI開発において重要な役割を担う「学習データセットのバイアス評価・是正」という分野で活躍されている元司書の方のストーリーをご紹介します。司書経験で培われた情報への深い洞察力や評価能力が、どのように最先端の技術分野で活かされているのか、その具体的な仕事内容ややりがいについて詳しく見ていきましょう。

図書館からAI開発の現場へ:キャリアチェンジの背景

今回お話を伺った田中さん(仮名)は、大学で情報学を専攻し、卒業後、公共図書館で約5年間司書として勤務されました。図書館では、利用者の情報探索支援、蔵書管理、情報リテラシー講座の企画・実施、地域資料のデジタル化プロジェクトなどに携わったといいます。

図書館の仕事にはやりがいを感じていたものの、情報技術の進化を肌で感じる中で、「情報」という軸はそのままに、より新しい技術分野で自身のスキルを試してみたいという思いが芽生えたそうです。特に、大学で学んだ情報学の知識を、実践的な技術開発に活かしたいという気持ちが強くなりました。

転職を考え始めた頃、AIが社会に浸透していくにつれて、その公平性や倫理性に関する議論が活発化していることを知ります。AIの判断が学習データの偏り(バイアス)に影響されるという問題に触れ、「これまでの司書経験で培った情報の『信頼性』や『公平性』を見極める力、多様な情報源を扱う経験が、この分野で役に立つのではないか」と考え、AI開発企業の求人を探し始めました。そして、データ品質管理や評価を専門とする部署にポジションを見つけ、キャリアチェンジを実現されました。

AI学習データセットのバイアス評価・是正という仕事

現在、田中さんが所属するのは、AIモデルの学習に用いられる大量のデータを収集、整理、評価するチームです。その中で、田中さんは主に以下の業務を担当されています。

  1. データセットの収集・選定基準検討: インターネット上のテキスト、画像、音声など、AIの学習に必要な多様なデータを収集する際の基準を、バイアスの発生リスクを考慮しながら検討します。
  2. データセットの評価・分析: 収集されたデータセットに含まれる潜在的なバイアスを検出するために、統計的な分析や内容の詳細な評価を行います。特定の属性(性別、年齢、地域など)に関する情報が過剰であったり、逆に不足していたりしないか、特定の価値観や視点に偏っていないかなどを丹念に調べます。
  3. バイアスの是正提案・実行: 検出されたバイアスに対して、データの追加収集、フィルタリング、重み付けの調整など、具体的な是正策を提案し、実行チームと連携して対応を進めます。
  4. 評価プロセスの設計・改善: より効率的かつ網羅的にバイアスを検出・評価するためのプロセスやツールの設計、改善に取り組みます。

田中さんの仕事は、単にデータを集めるだけでなく、そのデータの「質」と「公正さ」を担保するという、AIの信頼性に直結する非常に重要な役割を担っています。

司書経験が現在の仕事で活かされている点

AI学習データセットのバイアス評価という一見司書とは無関係に思える分野で、田中さんの司書経験は多岐にわたって活かされています。

田中さんは、「図書館で扱っていたのは主に書籍や論文でしたが、現在の仕事で扱うのはデジタルデータという違いはあっても、『情報』の本質を見抜き、それを必要とする人(あるいはAIというシステム)が適切に利用できるよう整理・評価するという点では、司書の仕事と共通しています」と語ります。

キャリアチェンジで直面した課題と学び

新しい分野への挑戦には、当然ながら課題も伴いました。最も大きかったのは、AIや機械学習に関する技術的な知識の習得です。大学で情報学の基礎は学んでいましたが、実際の開発現場で使われる専門用語や技術については、入社後に一から学ぶ必要がありました。

「最初は会議で飛び交う専門用語についていくだけでも必死でした。でも、司書時代に新しい分野の情報をキャッチアップする習慣がついていたこと、そして情報科学の基礎があったことが、学習の助けになりました。分からないことは臆せず質問し、関連書籍やオンライン講座を活用して知識を補っていきました」と田中さんは振り返ります。

また、エンジニアや研究者といった異なるバックグラウンドを持つチームメンバーとのコミュニケーションも初めは戸惑ったそうです。「司書は利用者とのコミュニケーションが中心でしたが、ここでは技術的な共通言語が必要です。お互いの専門性を尊重しつつ、『バイアス』という曖昧さを含んだ概念について、具体的なデータの偏りとしてどう定義し、共有するか、根気強く議論を重ねる必要がありました。」

これらの課題を通じて、田中さんは新しい分野を学ぶことの楽しさと、異なる専門性を持つ人々との協働の重要性を改めて実感したといいます。

現在の仕事の魅力、やりがい、そして今後のキャリア展望

田中さんは現在の仕事の最大の魅力として、「社会に大きな影響を与えるAI技術の根幹に関わり、その信頼性や公平性の向上に貢献できること」を挙げます。自分の評価一つが、開発されるAIの性能や、それが人々に与える影響に繋がるという責任とやりがいを感じています。

また、司書として培ったスキルが、最先端の情報技術分野で予想以上に幅広く活かせることを発見できた喜びも大きいといいます。「情報管理、分類、利用者理解といった司書の基本的なスキルが、デジタル時代の新しい『情報インフラ』を支える上で非常に価値があることを実感しています。私のキャリアチェンジが、他の司書の方々にとって、ご自身のスキルを異分野で活かす可能性を考えるきっかけになれば嬉しいです。」

今後の展望として、田中さんはAIにおけるバイアス検出・是正の分野でさらに専門性を深めたいと考えています。また、情報倫理やAIガバナンスといった、技術と社会の接点における課題解決にも、司書としての視点から貢献していきたいと語ってくださいました。

まとめ

元司書である田中さんの事例は、図書館で培われる情報に関する専門性が、AI開発における学習データセットのバイアス評価・是正という、現代社会が直面する重要な課題解決に貢献できることを明確に示しています。情報の信頼性評価、分類・メタデータ、利用者理解、情報倫理といった司書スキルは、情報科学やデータ活用分野の最前線で、その価値を発揮できる可能性を秘めています。

自身の情報科学の知識や情報管理スキルをどのように活かせるか悩んでいる方にとって、田中さんのストーリーは、司書経験や情報に関する専門性が、テクノロジー分野を含む多様なキャリアパスに繋がる具体的なイメージを提供してくれるのではないでしょうか。自身のこれまでの学びや経験を異なる視点から見つめ直し、新しい分野との繋がりを見出すことが、キャリアを切り拓く上で重要な第一歩となります。