「記録管理」のプロが企業の「情報統制」を担う:元司書がコンプライアンス分野で活かすスキル
図書館の知見がビジネスの情報統制に貢献する
企業のデジタル化が進むにつれて、膨大な量の情報が電子データとして蓄積されています。これらの情報を適切に管理し、必要な時に活用できる状態を保つことは、ビジネスの効率化だけでなく、法規制への対応や内部統制の観点からも非常に重要です。特に、電子メール、契約書、議事録、顧客データといった記録は、企業の信頼性や存続に関わる可能性もあります。
こうした企業の「情報統制」や「記録管理」の分野で、図書館で培ったスキルを活かして活躍する元司書がいます。今回は、大手企業の経営企画部門で情報ガバナンス推進に携わる元司書、田中さん(仮名)のストーリーをご紹介します。
図書館で培った「記録管理」への関心
田中さんは、大学図書館で長年勤務し、資料の収集、整理、保存、利用提供といった司書業務全般に携わってきました。特に、学術資料や研究成果といった多様な形態の情報を、将来にわたってアクセス可能にするための「保存」や「記録管理」の重要性を日々実感していたと言います。紙媒体だけでなく、マイクロフィルムや電子ジャーナル、機関リポジトリに登録される研究データなど、様々な媒体や形式の情報を扱いました。
資料の選定基準の策定、長期保存に向けた劣化対策、そして利用されなくなった資料の廃棄基準の設定などは、まさに情報が生まれてから消滅するまでのライフサイクル全体を管理する経験でした。これらの業務を通じて、情報の価値を判断し、どのように保存・管理すれば最も効果的に利用できるかを常に考えていたそうです。
企業の「情報ガバナンス」という新しいフィールドへ
田中さんが異業種への転職を考え始めたのは、図書館におけるデジタル資料の増加と、企業の不祥事報道などを通じて、情報管理の重要性が高まっていることを感じたのがきっかけでした。「図書館で培った、情報を体系的に整理し、その信頼性を担保し、長期的に管理するスキルは、企業の抱える情報管理の課題解決に活かせるのではないか」そう考えた田中さんは、企業の経営企画部門にある情報ガバナンス推進グループの募集に挑戦しました。
現在、田中さんはこのグループで、社内全体の情報管理体制の構築・運用に関わる業務を担当しています。具体的な仕事内容は多岐にわたりますが、主なものとして以下のような業務があります。
- 社内規程(文書管理規程、情報セキュリティ規程など)の策定・改定支援
- 電子記録管理システム(ERMS)やコンテンツ管理システム(CMS)などの情報管理関連システムの選定・導入プロジェクト参画
- 部署ごとの情報管理実態調査と改善提案
- 全社員向けの情報管理に関する研修企画・実施
- 監査対応における情報提供支援
司書スキルが企業の記録管理・情報統制でどう活かされるか
田中さんの業務において、司書時代の経験が具体的にどのように役立っているのでしょうか。
1. 記録のライフサイクル管理と長期保存の知見
図書館で資料の選定、保存、廃棄基準を定めていた経験は、企業のビジネス記録(メール、契約書、申請書類など)の適切な保持期間設定や、法規制(電子帳簿保存法、個人情報保護法など)に対応した長期保存戦略の策定に直接的に活かされています。どの情報をどのくらいの期間、どのような状態で保存すべきか、そして最終的にどのように廃棄すべきかといった、情報のライフサイクル全体を俯瞰する視点は、司書経験から得られた強みです。
2. 情報の分類・メタデータ設計スキル
企業の記録は膨大かつ多様です。これらの情報を、ビジネス活動や法規制の要求に合わせて体系的に分類し、適切なメタデータ(作成者、作成日時、関連プロジェクト、機密性、保持期間など)を付与する設計は、効率的な検索や管理、そしてコンプライアンス遵守の基盤となります。図書館で培った分類や件名付与といった情報の組織化スキルは、企業の複雑な情報構造を理解し、整理するための強力な武器となります。情報科学を学ぶ方にとっては、この分類体系の設計がデータベースのデータモデリングや情報アーキテクチャの設計思想に通じる点として、興味深い応用事例と言えるでしょう。
3. 情報倫理と法規制への高い意識
図書館は、利用者のプライバシー保護、著作権遵守、情報の正確性・公平性といった情報倫理を常に意識する環境です。この経験は、企業のコンプライアンス対応において非常に重要です。個人情報保護法に基づくデータの取り扱いや、電子帳簿保存法に則った記録の真正性確保など、法規制遵守のための社内ルール作りや運用において、情報専門家としての倫理観や法規への理解が活かされています。法務部門やIT部門と連携し、技術的な側面だけでなく、倫理的・法的な観点からの要求事項を定義する際に、この経験が役立っています。
4. 利用者への情報提供・教育スキル
情報ガバナンスを全社に浸透させるためには、従業員一人ひとりが情報管理の重要性を理解し、正しく実践することが不可欠です。図書館でレファレンスサービスや情報リテラシー教育を通じて培った「伝える力」、相手の理解度に合わせて複雑な情報を分かりやすく説明するスキルは、社内研修の企画・実施において大いに活かされています。堅苦しくなりがちな規程やルールを、具体的な事例を交えながら分かりやすく解説し、社員の行動変容を促す工夫をしています。
5. プロジェクト推進と関係者調整能力
情報管理体制の構築やシステム導入は、法務、IT、各事業部門など、社内の多様な部署が関わる大規模なプロジェクトとなることが一般的です。図書館内で様々なサービス改善やシステム導入プロジェクトに関わった経験で培われた、関係部署間の利害調整能力やプロジェクトのタスク管理能力が、円滑なプロジェクト推進に役立っています。
キャリアチェンジで直面した課題と学び
司書から企業の記録管理・情報ガバナンス担当へとキャリアチェンジする上で、田中さんが直面した課題もありました。
一つは、企業のビジネスプロセスや業界特有の慣習、そして情報ガバナンスを取り巻く特定の法規制(例:電子帳簿保存法、内部統制報告制度など)に関する専門知識の習得です。これらは図書館業務では直接触れる機会が少なかった分野であり、キャッチアップのために自己学習や外部研修への参加が必要でした。
また、図書館とは異なる企業文化への適応も必要でした。図書館は公共性や教育・研究支援を目的としますが、企業は収益追求が主な目的です。この目的の違いが、情報の管理や活用の優先順位、意思決定のスピードなどに影響します。ビジネスの論理や企業内でのコミュニケーションスタイルを理解し、適応していく過程で学びが多くあったと言います。
特に技術面では、情報科学の知識を持つ方ならイメージしやすいかもしれませんが、電子記録管理システムや各種業務アプリケーション、クラウドストレージなど、様々な情報システムが連携する複雑な環境を理解し、それらがどのように記録管理やコンプライアンスに関わるのかを把握することは、司書経験だけではカバーしきれない部分でした。IT部門の専門家と連携し、積極的に学ぶ姿勢が重要だったそうです。
現在の仕事の魅力と今後の展望
田中さんは現在の仕事の最大の魅力として、「自らの専門知識が、企業の根幹を支える重要な課題解決に直接貢献できること」を挙げます。情報が適切に管理されることで、ビジネスリスクが軽減され、業務効率が向上し、企業の信頼性が高まる。図書館で培った、情報の価値を見極め、組織的に管理する力が、社会の中で新たな形で活かされていることに大きなやりがいを感じています。
情報ガバナンスや記録管理の分野は、デジタル化の進展や法規制の変更に伴い、常に進化しています。今後は、AIを活用した記録の自動分類やリスク分析、ブロックチェーン技術を用いた記録の真正性担保など、最先端の技術動向も追いながら、企業のさらなる情報活用とコンプライアンス強化に貢献していきたいと展望を語ります。
キャリアに悩む方へのメッセージ
「司書経験は、情報の専門家としての確かな基盤を与えてくれます。情報の収集・整理・分類、利用者のニーズ理解、信頼性の評価、そして情報を組織的に管理し、アクセス可能にするためのノウハウは、企業の『情報迷子』をなくし、健全な情報活用を推進するために非常に価値のあるスキルです。
特に、情報管理、コンプライアンス、情報ガバナンスといった分野では、情報の信頼性や正当性を担保する視点が不可欠であり、これは図書館が長年培ってきた強みと合致します。もしあなたが、情報科学やデータ活用といった分野への関心があり、自身の司書経験をどのように活かせるか悩んでいるのであれば、ぜひこれらの分野に目を向けてみてください。司書経験は、技術を理解し、それを人間や組織の情報行動と結びつけて考えるためのユニークな視点を与えてくれます。
新しい分野に挑戦する際には、未知の知識を学ぶ意欲や、変化への適応力が求められますが、図書館で培った主体的な学習能力や問題解決能力は必ず役立つはずです。あなたの持つ『情報のプロ』としての知見が、企業の、そして社会全体の情報基盤をより良くするために貢献できる可能性は、想像以上に広がっています。」
まとめ
元司書の田中さんのキャリア事例は、図書館で培われる記録管理、情報分類、情報倫理、利用者対応といったスキルが、企業のコンプライアンスや情報ガバナンスといった分野でいかに有効であるかを示しています。特にデジタル化が進む現代においては、情報のライフサイクル全体を適切に管理し、その信頼性を担保する能力は、あらゆる組織にとって不可欠なものとなっています。
情報科学の知識を持つ読者の方にとっては、図書館の分類体系やメタデータ付与の考え方が、企業のデータベース設計や情報アーキテクチャ、さらには法規制対応にどう繋がるのかといった具体的な応用例として、自身のキャリアパスを考える上での示唆となったのではないでしょうか。
司書経験は、多様な異業種で活かせる可能性を秘めています。自身のスキルセットを改めて見つめ直し、新たなフィールドでの活躍の可能性を探求してみる価値は十分にあります。