情報に「意味」を与える:元司書がセマンティックWebとオントロジー構築で拓く道
図書館での経験が、デジタル世界の情報構造設計へ
図書館で働く司書は、日々膨大な情報を収集し、分類し、整理し、そして利用者が求める情報へと橋渡しをしています。この「情報を組織化し、利用可能にする」というプロセスは、一見すると古くからある営みのように思えるかもしれません。しかし、この司書が培ってきた高度な情報管理スキルこそが、現代の情報科学分野、特にセマンティックWebやオントロジー構築といった領域で、新たな価値を生み出す源泉となり得るのです。
ここでは、情報技術分野へキャリアチェンジし、セマンティックWeb技術を用いた情報構造設計の仕事に携わる元司書の事例を紹介します。図書館での経験が、現在のキャリアでどのように活かされているのか、その具体的な内容に迫ります。
図書館からセマンティックWebの世界へ
今回ご紹介するのは、大学図書館で数年間司書として勤務した後、IT企業のデータソリューション部門に転職したAさんです。
図書館司書時代、Aさんは主に図書や論文の分類・目録作成、利用者からのレファレンス対応、データベース検索指導などに携わっていました。図書館情報学で学ぶ情報分類、目録規則、メタデータ、そして利用者ニーズを深く理解し、適切な情報を提供するためのスキルは、Aさんの基盤となっています。
転職のきっかけは、図書館システムの刷新プロジェクトに関わったことです。この経験を通じて、情報をデジタル化し、システムとして扱うことの可能性と難しさを実感しました。特に、情報の構造化やデータの関連付けの重要性を痛感し、より技術的な側面から情報活用に関わりたいと考えるようになりました。情報科学分野への関心が高まり、セマンティックWebという概念を知った時、「これはまさに、図書館で情報の『意味』を扱ってきた経験が活かせる分野ではないか」と感じ、この分野へのキャリアチェンジを決意しました。
現在、AさんはIT企業で、企業の持つ様々なデジタル情報をセマンティックWeb技術を用いて統合・活用可能にするプロジェクトに携わっています。
司書経験がセマンティックWeb技術で具体的にどう活かされているか
Aさんが現在取り組んでいるのは、主に以下の業務です。
1. オントロジー設計
セマンティックWebの中核となるのがオントロジーです。オントロジーは、特定の分野における概念(クラス)とその概念間の関係性(プロパティ)を明確に定義した構造であり、情報に「意味」を与えるための枠組みとなります。
司書が図書を分類したり、件名標目を付与したりする際には、その図書が「何について書かれているか」「どのような主題を持つか」「他の図書とどのような関係があるか」を深く理解し、既存の分類体系や件名体系の中で位置づける作業を行います。これはまさに、情報の概念を定義し、関係性を明らかにする作業そのものです。
Aさんは、図書館情報学で培った情報の構造化や分類体系構築の知識を活かし、企業内の様々なデータ(製品情報、顧客情報、取引情報など)をどのように概念化し、それらの間にどのような関係性を定義すれば、機械が理解し、高度な検索や推論が可能になるかを設計しています。図書分類法や件名標目表、シソーラスといった図書館で利用されるツールや考え方が、デジタル世界でのオントロジー設計の基礎として非常に役立っているといいます。情報の階層構造や多面的な関係性を捉える司書の視点が、複雑なビジネスデータの構造化において独自の強みを発揮しています。
2. メタデータ標準の理解と応用
セマンティックWebでは、RDF (Resource Description Framework) というフレームワークを用いて、情報にメタデータとして意味づけを行います。RDFは「主語―述語―目的語」というシンプルな構造で、情報間の関係性を表現します。
司書はMARC(Machine-Readable Cataloging)などの標準的なメタデータ形式を用いて、書誌情報(タイトル、著者、出版社、ISBNなど)を記述します。これらのメタデータは、利用者が情報資源を検索・特定するための重要な手がかりとなります。
Aさんは、MARCをはじめとする多様なメタデータ標準やその応用(ダブリンコアなど)を学んだ経験から、デジタルデータに適切な記述を付与することの重要性とその方法論を深く理解しています。この知識が、RDFを用いたデータ記述や、既存データからセマンティックデータを生成する際の設計に活かされています。どのような情報をメタデータとして記述すれば、システムがその「意味」を正確に解釈し、効果的なデータ連携や検索が可能になるかを判断する上で、司書時代のメタデータに関する知見が不可欠だといいます。
3. 利用者(ユーザー)視点での情報アクセス設計
図書館司書の仕事の重要な側面の一つは、利用者が情報をどのように探し、どのような情報にアクセスしたいかを理解することです。レファレンス対応や情報検索指導を通じて、利用者の情報探索行動や情報ニーズを把握する能力は、司書の強みです。
セマンティックWeb技術を活用する目的は、単にデータを構造化するだけでなく、その情報を最終的に利用する人々(社員、顧客など)が、より効率的に、より深く、必要な情報にアクセスできるようにすることにあります。
Aさんは、図書館で培った利用者理解のスキルを活かし、オントロジーやセマンティックデータを設計する際に、「この情報にアクセスしたいユーザーは、どのようなキーワードで検索するか」「どのような関係性を知りたいか」といったユーザー視点を常に意識しています。例えば、製品情報オントロジーを設計する際に、「製品の性能」だけでなく「製品が解決する課題」や「製品が適用される業界」といった、ユーザーが知りたいであろう側面を関係性として定義するといった工夫を行っています。利用者ニーズに基づく情報設計は、司書ならではの貢献だといえます。
キャリアチェンジで直面した課題と学び
情報技術分野へのキャリアチェンジは、もちろん容易なことばかりではありませんでした。Aさんが特に苦労したのは、セマンティックWeb技術に関連する専門知識(RDF, OWL, SPARQLなどの技術仕様やツール)を習得することでした。これらは司書養成課程では通常深く扱われない領域です。
しかし、Aさんは情報科学を学ぶ大学院生のように、基礎的なプログラミングスキルやデータベースの概念を理解していたため、新しい技術へのキャッチアップは比較的スムーズに進んだといいます。また、図書館で新しいシステムやツールを導入・学習してきた経験も、新しい技術環境に適応する上で役立ちました。
「情報は常に変化し、それを扱う技術も進化し続けます。司書として情報をアップデートし続けたように、情報技術分野でも継続的な学習が不可欠だと感じています。そして、図書館で培った『情報を構造的に捉える力』や『新しい情報に主体的に取り組む姿勢』が、技術習得の大きな助けになりました」とAさんは語ります。
現在の仕事の魅力と今後の展望
Aさんは現在の仕事の魅力について、「図書館では物理的な情報資源を扱っていましたが、今はデジタルな情報資源に『意味』を与え、それらを高度に連携させることで、全く新しい情報の利活用を実現できる点に大きなやりがいを感じています」と述べています。情報の分類や整理といった司書のコアスキルが、最新の情報技術と組み合わさることで、ビジネス課題の解決に貢献できることに喜びを感じているようです。
今後の展望としては、より大規模な知識グラフの構築や、セマンティック技術と機械学習・自然言語処理といったAI技術を連携させた高度な情報サービス開発に携わっていきたいと考えているそうです。
自身の専門性を異なる視点で見つめ直す
Aさんの事例は、司書が培ってきた情報管理や分類・組織化のスキルが、セマンティックWebやオントロジー構築といった情報科学の専門分野でいかに価値があるかを示しています。
情報科学を学び、データベースや情報構造に関心がある方にとって、図書館情報学で扱われる分類体系やメタデータの考え方は、情報に「意味」を与え、それを体系的に管理するための原理原則として、非常に示唆に富むものです。そして、司書経験を持つ方にとっては、自身の「情報を扱い、整理し、利用者に届ける」という専門性が、情報科学の技術と結びつくことで、情報システムの根幹を設計したり、AIが情報を理解するための基盤を築いたりといった、全く新しい形で社会に貢献できる可能性が広がっていることを示唆しています。
自身のスキルセットを異なる業界や分野の視点から見つめ直すことで、思いもよらないキャリアの道が開けることがあります。情報の専門家として、あなたのスキルがデジタル時代でどのように活かせるか、ぜひ探求してみてください。